◎人生の終着駅に近づいて、なにが役に立つか、それは信心の喜び、力、神心だ。ためにはいよいよきつい、辛抱できかねるというときに、いわば、自然との対決において、おかげに流されるより、辛抱の方を取れ。それで初めて力が受けられる、神心が育つ。「若い時の苦労は買うてでもせなけりゃ」と、それは信心の上にのみ言えることだ。
%1久保山家のこれから。光輝くものがもっと大きくなって。
%2久留米佐田さんの、奇跡でも見たいとのお届けに対し。
%3夏期信行に賭ける執念を取って一日休んだらおかげを頂いたという人に対して。
%4信心を止めたらかえって繁盛する理由。
%A御心眼に、「八十歳ぐらいの、財産もあり、かつては力をふるった人、しかし今は杖をついてとぼとぼ歩く老人」
%B親先生が初めて久保山先生と出会われた時のお知らせ。「身を縮めて光を放つロウソク。」
%C北野の教会にお話に行ってある頃、せっぱ詰まった問題に頂かれたお知らせ。「大根と牛蒡」
%T桂松平先生の辛抱の決心。
%G北野の教会に話に行ってある頃。
%Z大根
%Z牛蒡
%V
昭和四十三年七月三十一日 日朝の御理解
X御理解第七十四節「可愛いと思うこころが神心じゃ」
これは、誰の心にでも同じようなものがあると思うのですけども、時折これが神心であろうかとゆうような心が湧いてくる事がある。虫けら一匹の上にでも可愛そうと思う神心、それは、お互いの心の中にある神心が、そのような時に出てくるのである。意地の悪い人にでも、自分の仇のように思うている人の上にでも、時折可愛そうな人じゃなぁと思うような事があるでしょうが、考えてみるとあの人も可愛そうな人じゃ、それが神心。
そこで時々その神心が出てくるのではいけない、神心はいつもその神心が使える、いつもその神心にひたっておられる、いわゆる吾と吾心が拝める心ですから、時折にではあるけれども出てくる神心とゆうものを育てていくとゆう事、それが成長していく事が信心だという事が云える。
神心を育てていくとゆう事がお互いの心の中に神心がある、その神心を育てていくのだ育てていくとゆう表現ではなくて、お互いの心の中には、実はその神心があるのだ、けれどもそれが私共の我情我欲といったような汚れはてたもの、汚いもので、おおいかぶされておるだけの事。
そこで信心は、「日々の改まりが第一じゃ」とおっしゃるように改まっていく事に、磨いていく事に目指して頂き、限りなく美しゅうならせて頂こうというような、精進の中から自分の心の中に本来あるところの神心が発揮されてくるのである、現されてくるのである。信心は、ここのところを目指すのです。
%A『私今朝、御神前で本当に神心とでも申しますかね、可愛そうだなぁと心から思わなければおられない事がございました。「八十にもなられるおじいさん、もう、【】やはり若い時には相当はぶりもきかせたであろう、身成りと云い、品格と云い、現在身につけておられる洋服だって実に瀟洒な、実に立派な【】、【】の無い紳士である。ところが、争われんのは年である、もう八十、昔は相当の地位もあったであろう、財産はいまでもあるだろう、それは、その風格からいっても分かる。ところがです、もう少し、腰を前に曲げて木とも竹ともつかんような杖をついて、それこそ、とぼとぼとして歩いておる姿」を頂いた、御心眼に。
%A『もう実に哀れをもよおすというか、可愛いものじゃと云うその神心、神も仏も知らずに一生を、例えば自分の頭にまかせ、又は地位にまかせ、力にまかせそして確かに生きぬいてきた。けれども、いよいよ自分の終着駅に近ずいてきた事がいわゆる、何とはなしに秋風がひそめる、心の中に、その秋風が吹いてぬける時に、そこにこれは何とも表現のしようもない、金もあるけれども物もあるけれども、現在は別に病気しとる訳でもないけども、もう自分も八十だ、さぁ、あちらに持っていくものもなからねば、はたして残しておくものもない。いや、財産はある、自分の若い時に持っておった名誉とか地位とか、それはもうすでに過去のものである。私は、これが信心のない人の姿だと思うのです。
%A『いかに云うなら偉そうなことを云うても、もっともな事を云うておっても、いよいよ人間があの世行きに近ずいて来るようになると、必ずその寂しさを味あわなければならない。それが信心のない姿だ。信心のない者の姿だ、それはもう遅い。自分が八十年間生きぬいてきて、その八十年間で一番大事だったものは何であったであろうか、地位だ、名誉だ、金だ、物だとその蓄積としてきた八十年間とゆうものが、実にうたかたの泡のようなものを感ずる。
そうゆう意味でです、この御理解八十四節の「可愛いと思う心が神心じゃ」とおっしゃる、私共の心の中にあるその神心をですねぇ、いよいよ何ものにも邪魔されない心がいつでも出せれる、それを育てさせて頂くと云うか、自分の心の中にいよいよ神心が強うなっていくとゆう事。
御理解五十七節を開いてもらえませんか、「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃ」まさしく金を杖につき、竹を杖についておる人の姿が、今日私の心眼に映じたそれであると思う。金があればと思うておった、木や竹と云うのは、気、心、自分の心が非常に誰よりも堅固である、これは自分で信念しておる、その例えば強い心も強い気も、年をとるに従って弱ってくる、肉体が弱ってくるに従って弱ってくる。強情な事を云うておるようであっても、寂しいから寂しいだけ、いわゆる頑固おやじといわれるのはそれなのだ。頑固じじいとゆうのはそれなのだ、自分がもう年をとって寂しいもんだから頑固をはるのだ。
「金の杖をつけば曲がる【】竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃ」、そこで例えば昨日の朝の御理解に頂きますようにです、神を信ずる氏子は多いけれども、神より信じられる氏子が少ないとおおせられます。まず神を信ずる力、力なんです。信じておりますと云うても、どれだけ信じておるか、百信じておる人もある、千も万も信じておる人もある、それが力なのだ。その力がそのまま杖になるのだ。神を杖につけば楽じゃ。年を取っていくに従って、頑固はらんで済む、金やら物やら財産やら地位やらは無かった、人よりも頭もよくなかったけれども段々信心していれば一年一年有難うなっていくとゆう有難い体験、いよいよ神様を信じる力が頂ける、神を杖についてゆく、楽な姿と云うものをです、お互い思うてみなけゃぁいけん。
%V「若い時の苦労は買うてでもせなけりゃ」それは私は信心の上に言えることだと思うのです、例えばこれは信心をぬきにしてから、若い時の苦労は買うてでもせろというて、若い時に苦労をして、財もなした地位もなした、若い時に苦労をしておったから、さぁ、そして年を取ってからそれが何になる、過去何十年間と働いて、そうゆう出世は出来たけれども、さぁ行き先がもう短いとゆう事になってきたら、もうさみしゅうてさみしゅうてという、いわゆる金や木をついておる老人の姿を浮かべて見るがいい。
心によりどころがない、それこそ夢が夢がになるんです、過去にああゆうきらびやかな財があった、ああゆう時代があった、けれどもそれは何にもなってなかった、自分が死んで行くことには何にも役に立っていなかったのである。老後の安心と云うのは金じゃないのだ、物じゃないのだ、自分の心の中により神を杖につけるとゆう事なのだ。いよいよ神を杖につけるとゆう、その神がどれ程の力を持った所の神であるかと云うことを、若い時の苦労をしっかり修行さして頂いて、いよいよ神の絶対性をですね、信じきらして頂けれるおかげを頂いておかなければならない。
そして御理解五十五節を開いてご覧なさい、同時に御理解五十四節を開いてご覧なさい御理解五十四節に「徳のないあいだは心配するが、神徳をうければ心配はない」とおっしゃる。「徳のない間は心配をする」いわゆる、神様を信ずる力が出来て、神様から又信じられるとこのおかげを頂くようになったらね、此の世に恐いものもなからなければ、不安なものもない、只あるものは有り難いものだけなのだ。それこそ死ぬるという事ですら恐い事でなくなってくる。「徳を身に受けよ、徳のない間は心配をする、身に徳を受ければ心配はない」そこでその徳を受ける為に昨日の朝の御理解があり、又今日私が申しております御理解七十四節の「可愛いと思う心が神心」という心がみんなの心の中にあるのだ、その可愛いと思う神心をです、「和賀心が神に向こうていくのが信心とゆうのじゃ」とおっしゃるように、その神心をいよいよ立派なものに、何にも邪魔される事のないようにしていくとゆう事の精進が、いかに大事かという事が分かる。
五十五節に「賃を取ってする仕事は若い時には頼んでくれるが、年っをとっては頼んでくれん、信心は年がよる程位がつくものじゃ、信心をすれば一年一年有り難うなってくる賃をとってする仕事は、若い時は誰でも頼んでくれる、賃をとると云う事は、今日私が御神眼に映じたその方の場合であってもです、若い時に力もあり、腕もあり人望もある、それこそどこどこの会社から重役にとゆうて肩書きを何十と持っておるようにですね、あっちこっちからひっぱりだこといったような【】の力を持っておった人であっても、若い間だけなんですよ、それこそ賃をとってする仕事なんだから、力があればその力を買うのだ、人望を買うのだ。けども年をとってよぼよぼになったものを誰が雇ってくれますか。
%Bそこに信心はです、それは平凡な生活であったかもしれない。『私は久保山先生と一番はじめの出会いの時に、私が神様から頂いたものにですね【】「一本のローソクを頂いた」そのローソクに光が転じておる、それが段々とろうが流れてちぢこまっている、久保山先生が「あなたはこうゆうおかげをうけなければいけんのですよ」といわば自分の身をいよいよ削るようにして、それを縮めていきながらそれでも尚、辺りに光をはなつ。まさしくその通りだったと思うのですね。
昨日、稔さんが東京から帰ってこられた。あちらから、【】やお寿司の材料を持ってきておる。昨日お寿司をよばれたんです。ここでのいわば、お座敷寿司です。
%1その後にいろいろお話しながら、本当におやじは、可愛そうだったとゆう事をしみじみと云うのです。それは私も同感です。けれどもそれはどこ迄も人情なのだ。それこそ自分の身を、いわばむなしゅうしてからでも光を周囲に放っておるでないか、長男の茂さんが「稔さんあんたが、孝さんが、和子さんが、孫達に至るまでが金光様、金光様と日々が明け暮れているじゃないか」 けれども稔さんがいうのです。「僕達に、もし信心がなかったら、現在どうゆう風になっておるでしょうか」それはあんた達だけじゃない、私達にだってそれを思うと、もし信心がなかったら、もうそれこそ岐路に立った時、信心がなかったら必ず右を通ったであろう。けれども先生が左だとおっしゃるので、左を通らせて頂だきよって現在なのだ。本当に信心がなかったらと思うただけでも、私の場合なんかは、それこそ身に泡が出来るように、泡つぼが感じるようにある。
%1賃を取ってする仕事はね、皆さん若い間だけなんですよ。金が物がですね、とゆうておりますけれども、それも若い間だけなんですよ、本当に、いわばおおかぜきるというかそれを凝視出来るのは。もう年を段々取っていったら、それこそ物もいらない、金もいらない、地位もいらない、そして自分の心の中に頂けるものがもしあるなら、安らぎが頂けれる安心が頂けれる、喜びが頂けれるなら自分の持っておる一切を投げ打ってでも、それを頂きたいとゆう事になってくるんです。ですから皆さんは、なる程難儀なら難儀を、通して御教えのおかげを頂いたけどその難儀がおかげを頂いたと、助けられたとゆうだけではなくて、その事を通してです、今日私が申しますように、神心が自分の心の中にいよいよ育っていく事の楽しみというか喜びを、おかげ頂かにゃいかん。
%1昨日もこれは稔さんが云っているんですよ、もうそうですねぇ、二十年近くああして働いて。自分の後輩であり、自分の教えた弟子達は、次から次へと店を持っていく訳なんです、しかも立派な店を。もう親先生に何をいつお願いをしても、そうゆうチャンスが何回も何回もあった、【】もあった、けれどもおかげちょっと待て待て、待て待てと二十年間続いてきた、もう親先生私はいつになったらおかげ頂くじゃろうかと云いたい時もあるという。例えばゆうなら腕で、寿司やさんとしての信用というならばです、天皇陛下にお寿司を握ってさしあげるとゆう位じゃからもうこれは一級だと思うのです。それが誰よりも彼よりもまぁ待てと、それが二年三年ならともかくも十年も二十年も待たしてあるとゆうところに、さぁ本人も寂しい思いをする事もあるんです、人間ですから、けれどもです今日の御理解を頂いて、まぁだまぁだこれから先の方が長いんです。
%1これから先というのは生きとる間だけじゃなか、只有難いのはお父さんが残されたその、それこそ身をなくしてまった、けれどもお父さんの光とゆうものが、久保山一家の上に光輝いていきよるとゆう事。まぁだ、もっともっとこれが光輝いていきよるとゆう事その時節を待つ、その時節を待つのを、どうして待つか、いわゆる自分の心の中にある、神心をいよいよ養成して、あるものをですねぇ、本当に発揮していくのだ。そこに焦点をおかなきゃならん。
%T初代の小倉の桂先生が、ある切迫した問題を神様にお願いなさった。これをおかげ頂かなければ自分の立場がない、「神様おかげ頂かしてくれ」と願われた。御神前で御祈念しておられると、御神前の前に「一本の竹の子が御心眼に見えた」しかもその竹の子がずっと伸びて、お広前の天井をつきほがして伸びているところを頂かれた。次に「大きな葱を一わ」頂かれた、野菜のね。
%Tそして神様が「桂松平、今汝が願うておる事を今聞き届けてやってもいい」とおっしゃった。けれども、それはどこまでもこの葱ぞ、葱は苦労してないから今にでも食べられるぞ、けれどもこの竹の子は竹の子で食べるよりも、竹にしてどのような細物にでも使われるようなおかげを頂くために、押さえ押さえして神が辛抱させてあるのぞとこういわれる。さぁ先生の腹が決まった、そりゃぁどんな苦しゅうても、辛うても、いや、私の顔がつぶれましても葱の方を取る段じゃない、その竹の子のほうを取らして頂こうと腹が決まった。
%G%Vそれは私にもそれと同じような事があった。北野の教会にお話に行っておる時であった。もう私それこそせっぱつまって、私の顔がつぶれる段じゃない、もう、どうにもこうにも出来ない問題を神様にお願いさして頂きよった。そしたら私の心眼に頂くのが、%C『「お三宝に一台大根のお供えがしてあった」もうきれいに洗いあげた大根です。次にもう一台のお三宝に「もう長い、それこそ土居あたりで出来るような、ごぼうがお供えしてあった」そして神様が私にどちらを取るかとおっしゃった。
%G%Vどちらを取るかといいながら、%Z「神様が大根の御理解、ごぼうの御理解」を下さるんですよ。%Z大根は白うしておる、いわゆる苦労していない、%Zごぼうは長く苦労しておる、長く苦労をいれておるですからごぼうを見て見ろと、ごぼうは長う苦労しておるから、どのような事にでも使われる。御祝儀事にも使われる、仏事にも使われる、そして毎日のおそう菜にも使われる。どうゆう御用に使うてもいわば使いこなせれるのだ。こぼうは、「さぁどっちを取るか」。
%2昨日久留米の佐田さん達が御参りしてみえました。先生こうやって、今一家あげて御参りさせて頂きよるが、神様のなんか、がくっとするようなしるしをみせてもらわんと安心ならんとゆう訳なんです。まぁゆうなら奇跡の一つでも起こらんならんとゆう訳なんです。ところが、そうゆうものでは役に立たんと私が云うのです。
%2まぁそれは強いてゆうなら、一心におすがりしなさい、神様は夢の中にでもお知らせ下さるですよ、又は御心眼でも頂きますよ、不思議に不安である心の状態がそれこそスキッとして腹が決まる。けれども現在のこの今まで、もつれにもつれてきておるものを、今ここできれいに流してくれと云ったって、それは無理な話なのです、いや、神様からすりゃぁ無理なこつじゃない、それこそあっと云う間におかげは下さるじゃろうけれども、それでは氏子に力がつかん、さぁ大根がよいかごぼうがよいかとゆうようなものなのだ。
%2%Vそこでです、私供がここで分からなければならない事は、「可愛いと思う心が神心じゃ」こうゆう時に神心を頂くんだ、神心をいよいよ間違いのないもの、本当なものにしていくんだとゆう行き方。
%3昨日ある方がお参りして来て、ここでも第一人者と自他共に許しておる人なんです。夏季信行が始まって毎日一日もかかさずお参りしている。ところが最近は非常に体がきつい、いろんな事情がこんがらがって、いろいろある。
%3そこでその人がいろいろ思うた、これはもうどうでも、合楽、合楽、合楽と云うて合楽に明け暮れておるが、これは自分の執念ではなかろうかと思うたと、又周囲の子供達も周囲の者もそうゆうような事をいう、そげん合楽合楽と云わんでん、こげな仕事もつかえとるし、一日位休んだからってそれがどうって事はないのだから考えてみりゃぁ、それもそうだ、これは自分の執念かもしれん、執念じゃ神様には私は通用しないごたるから、ここは一番、今日は御無礼させて頂いて家のかたづいていない御用でもさしてもらう、そして体もきついのであるから、一日ゆっくり休養させて頂こうとゆう気になったら、心がスッキリした。
%3もう不思議におかげで体がしゃんとしてきた。いろいろ山積しておった問題も次々にスムーズに解決した。先生、だから本当にやっぱり執念ではいけません、昨日一日は御無礼致しましたけれども、このようなおかげを頂いたとゆうのである。皆さんどう思いますか、その方はいつも、そうゆう様に悟りを開く、まぁ云うならば名人である。今迄はそうじゃもんね、おかげを受けておるとゆうて、けれども昨日は同じ事をいつも堂々めぐりしておったんではいかんと思うて。
%3まるまるさんそれはね、おかげは頂くよと私は申しました、けれどもそれでは力はつかん、これはなる程、執念はいかん、けれども神様へ向けてからの、それは執念にも似たようなもの、もう一途のもの、身体はきついけれども、こんな事情はあるけれどこうと決めたことはこうとやりぬかせて頂くところにおかげじゃない、もう力なのだ。
%4例えばここであげん熱心に信心した人が、スパッとやめた人があろうが、誰さん彼さんだって同じ、やめたばってん、かえって商売繁盛しよるとゆう人があろうが、それはねぇ、それ迄打ち込んできた、神様が信心をただ取りはなさらん証拠なのだ。やめた途端におかげは頂けるのです。
%4今迄打ち込んできた、神様は辛抱さして頂いて、そのおかげじゃない、力とおかげを一緒に下さろうとしているんだ。けれども辛抱しきらんでやめた、やめたらおかげは頂けた。だから信心はやめたばってんおかげは頂きよるとゆうがいくらもあるとゆう事。それと同じなのだ。身体もしゃんとしてきた、事情もスムーズにいった。やっぱり執念じゃいけんと悟った、なる程悟りではあろう、おかげを頂く為の、それはひとつの悟りかもしれんけれども力をうけてゆくと云うか、光を受けるとゆうか、徳を受けてゆくとゆう事にはそれは駄目なのです。
%Vそうした、いわば自然との対決に於てです、私共がいよいよ力を受けなければならんところを、そうゆうおかげの方へ流されてです、いわゆるごぼうと大根を出されて、大根の方を取らせて頂く、今でもおかげを頂けれるけれども、とにかくごぼうの方を取らなければ、竹の子の方を取らなければ、どんな細工のものにでも使われるような私に、おかげを頂く為には、今こそ、その信心の力とゆうものを身につけていかなければならない時であるという事をです、お互いが知らにゃいかん。
%Vこれはおかげを頂かれんけん、なぐさめにいわば方便に、「そげんいうちゃるとじゃなか、絶対に」まぁまぁ待ちなさいと云う待ちなさいかわりになぐさめの言葉じゃない、それだとゆう事をお互いが信じてです、大根の方を取らずにごぼうの方を取っていくような信心にこそ、今日私がいう、「いよいよ私共が、金を杖につくのじゃない、ものを杖につくのじゃない、神を杖につけば楽じゃ」とゆう神様が絶対のものとしておかげ頂けれる信心をすれば、一年一年位がつくのだ。年をとる程に位がつくのだ。そうゆう例えば位をつける、「身に徳を受ければ心配はない」とおおせられるように、いよいよ心の中に喜びと安心の生活が出来るおかげが頂かれる為にお互いの心の中にある神心をいよいよ神心たらしめなければならない。
%Vそれには自然とのいわば対決に於てです、そうゆう時にこそです、いよいよ力を受けるんだと、あの時にあの力を受けたんだなと自分でも感じられるぐらいにです、ここをのりきり、ぬけきってゆけれる時にです、信心辛抱があるのです、修行があるのですよ。
%V八十にもなって若い時には、それこそ地位もあった、名誉もあった人望もあった、人生の幸福とゆうのはこうゆうものかとゆうようなところを通ってきた、けれどもさぁいよいよそうゆう例えば物も名誉もある意味でのなす事をなしてきたんだけれども、そんならいよいよ八十に手がかかるようになり、いよいよ人生の終着駅に近ずいてきた時に、もうそうゆうものは何の役にも立たない事が分かってきた。
%Vそこにです、「信心の道を歩いた者、信心でない、信心の道も、真の道も知らぬ人の哀れさ」とおっしゃるその哀れさをです、今日のその御心眼で本当にその哀れさを感じたんです、気の毒だなぁ信心のない人は。年を取っていくに従って可愛そうになっていくようになってくる、心に何の支えも寄りどころもない、あるものは、金やら物やらあろうけれども、金やら物やらならです、自分の頑固な心だけをです、杖についたんでは、もう心もとのうて心もとのうて寂しゅうしてたまらん、それこそ終着駅に段々とぼとぼとして歩いておる一老人の姿を皆さん心に描いてみてごらんなさい。
%Vそれではない、年を取っていくに従って位がつき、年をとっていくに従って喜びがまし、年をとっていくに従って安心のおかげを頂いて、死際にも有り難いとお礼の申し上げれるようなです、そうゆう信心を私共は本気で身につけていかなければならない。それで「今こそ力を受けれる時である」とゆう今こそをです、おろそかにしてはならないとゆう事なのです。難儀な時に起きてくる、それこそ手を上げたいような時にこそ、「さぁ神様がごぼうがよいか、大根がよいか云うてござる時」と思うてです、もうひと辛抱させてもらおうごぼうの方をとらせて頂こうとゆうところから、いよいよ神心のおかげが頂かれる。
%V「可愛いと思う心が神心じゃ」可愛いと思う心は、それはせつな的ではある、瞬間ではあるけれども、誰の心の中にもある、それは虫けら一匹の上にでも、その可愛そうとゆう心が起きてくる。それが神心なのです。誰にでもあるのです、だからそれをいよいよ神心たらしめるところに、信心があるのです。どうぞ。